外の世界を知ることは選択基準を広げること

今、自分のブログのトピックスとしては、成長、競争、キャリア、強み、独立起業、など、形容するなら「ギラギラとした世界」について頻繁に書いています。それは、自分の目指すべき像が、そこにあると思ってるからです。それを目指す事が正しいことなのかどうかは、まだ自分には分かりません。しかし、少なくともそういう選択肢があることを自分は知ってしまい、それが良いものであるように、今は思えているからです。

もともと自分は、非常に牧歌的な田舎の村で育ちました。そこには、テレビや新聞以外には、そのようなギラギラした外の世界との接触はありませんでした。他に選択肢がある事を知らなければ、共存共栄を目指す田舎のルールの中で生きることは、窮屈かもしれませんが、それはそれで幸せだったのかもしれません。

しかし、一旦、外の世界と繋がってしまい、田舎のルール以外に選択肢があること知ってしまえばどう考えるでしょうか。田舎で自分が狭い選択肢しか持たないという事実を不幸だと思い、反発するでしょう(昔の自分みたいに笑)。

今はIT全盛の時代で、日本中また世界中のあらゆることがリアルタイムに分かります。昔の田舎のように、「自分が選択肢を持たないという事実に疑問さえ持たない」という状況を作り出すのはもはや難しいのではないでしょうか。となると、自分は遅かれ早かれ外の世界と触れ、自分には様々な選択肢があること知ることになるのでしょう(18歳が早かったか遅かったかは別にして)。

外の世界を見ることは、選択基準が広がることだ、という話を聞いたことがあります。これは、自分が変わりたいという思いと直結していきます。(隣の芝生が青く見えがちな自分にとって)外の世界を見るたびに自分の理想らしき姿が見え、いつまでも変わり続ける自分の理想像にはいつまでたっても追いつけないことわかっています。だけど(達成できないとわかっていても追い続ける)そのプロセスは正しいことなんじゃないのかなと今では思っています。

では、その自分の理想って何だ、というのが自分にとっての究極的な問いだと思っています。その理想を自分で定義していくことが、自分の人生を生きるということだと思います。では、どうやってそれを定義するか?それは、外の世界を見た上で自分の心に聴いてみる、ということだと思います。外の世界を見て、選択基準を広げて、その中で自分にしっくりきそうな理想像を探していく、ということなのかなと思います。と考えると、今の自分の理想像は非常に狭い範囲の中からのみ作り上げられたものだと気付きます。選択基準を広げるためにも、もっとの世界に出ていきたいと思います。頑張ります!!!(青臭い話ですみません笑)


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