今、会社で懸案となっている仕事を抱えています。それは部署を挙げた一大プロジェクトであり、非常にチャレンジングな目標であるものの、その目標の必達が義務付けられていると言っても過言ではない、非常に難しい性質のものです。
ですので関連する部署の皆が、実行しなければならない、目標を達成しなければいけないと色めき立って、部署には異様な空気が流れています。自分たちのグループでも、有志で集まってその対応を協議しています。そのような会議においてまず話題になるのが『どうやって達成するのか?』ということで、皆それに終始しているように思います。
それはそれで大切なことなのですが、そもそも何故そのビックプロジェクトが必要であるのか、というところに立ち戻り考えようとはしていません。一生懸命な人ほど『how?』にこだわって、『why?』は手付かずになっていると思います。必ずしも『与えられた方法でどうアプローチするか』が最良とは限らず、『真の目的を達成するために全く違う方法でアプローチする』ということが最適解になるかもしれません。
ドラッカーの3人の石切工の例え話でもあったとおり、生計をたてるために石を切るのか、最高の石切りの仕事をするのか、教会を作っているのか、どの次元で問題にアプローチしていくかが大切だと思います。自分たちが抱える課題は非常に大きなものであるため、『そもそも、何故それをやる必要があるのか』から出直しても良いのではないか、むしろそうすべきなのではないかと思っています。
これは質問が投げかけられた時点で、自分の発想が制限される良い例だと思います。そしてこの枠組みの制限から思考を解き放ってくれるのが『そもそも』という言葉だと思います。この言葉を多用することで、制限された思考の幅を取り戻すことが出来るのだと思います。
しかし問題が起きた会議の時だけ『そもそも』と言っていたのでは、肝心なところでちゃぶ台をひっくり返す単なる面倒な人と言われかねません。しかも本当に『そもそも』が必要な時がいつやってくるのかも分かりません。そのため、この言葉を常に頭の中で回していおいて、日頃のアクションの一つ一つの行動の意義を再定義していかないとダメだと思います。
このように良質な決断を促すには、それを引き起こす言葉を頭のなかに常駐させておく必要があると思いますが、そのためには訓練が必要です。だから自分は(普段の頭の中はスッカラカンなのですが)このブログを書いている時だけでも良質な言語を頭の中に呼び戻し、そのままま常駐させる訓練をしているつもりです。訓練のため同じことを何度も繰り返しているので読む方はたまったもんではないとは思いますが、そんな意図で書いています(まあ誰も読んでいないと思いますんで、まぁいっか笑)。
よんでわろた