仕事の成果を考えろ、とよく言われます。今日、自分達の部署のある仕事が、何の成果も産んでいないのでないか、と考えさせられる事例がありました。
その仕事はすでに定型化されており、担当者は何も考えずに仕事を進めていれば、結果(データ)は出るようになっていました。そのため、この仕事の担当者は、依頼部門から求められたことを、自分たちの部署の得意なやり方で実施ました。
しかし、その仕事に求められることは、担当者の出したデータとは全く違うところにあるのではないか、と感じています。そのため、その仕事の担当者は早く安く効率的にそのデータを出したのですが、その努力は全く見当違いのものに思われました。
まず問題だと感じている点は、
自分たちの部署の「得意なこと、やりたいこと」、ではなく、「自分たちのサービスの受け手が真に欲している」こと、を提供していかなければならなかったのではないか、と反省しています。
もう一点、問題だと思っている点は、
自分たちのサービスの受け手が真に望んでいることはサービスそのものではなく、そこから得られる効果であって、サービス自体は効果を達成するための手段に過ぎない、ということを仕事の担当者がもっと理解する必要がある、と思うんです。(風邪の患者さんがお医者さんに望むことは、風邪の諸症状の改善であって、風邪薬を処方してもらうことはその手段にすぎない)
というのは、サービスの受け手が手段を正しく理解していない可能性があることもあると思うです。だから、自分たちの部署は生化学の専門家としてサービスの受け手の真のニーズに気付き、最適な手段を逆提案していくことも、しばしば必要になってくるはずなのです。(「風邪薬を処方してほしい」という患者さんに対して、お医者さんは「これは風邪ではなく XX という病気だから、風邪薬ではなく YYY というお薬をだします」と言うかもしれない。)
今回のデータは、サービスの受け手が希望した手段を一言一句そのまま実施したため、確かに受け手の希望する手段は満たしたけれども、目的は満たせなかった、というお粗末な結果でした (泣)。
今回のような事態を防ぐには、自分たちのサービスの受け手は誰か、受け手が望んでいることは何か、それはどのような手段で達成できるか、を仕事の担当者全員が考え理解していかなければいけません。しかも仕事の状況はプロジェクトごとに変わっているはずですので、毎回、成果の定義は違うはずです。
定型業務を(何も考えずに)やってデータは出していれば、仕事をやっている気にはなるのですが、そのデータがサービスの受け手が真に欲している効果を生むものでない限りは、それは成果につながらないことを再認識するきっかけになりました。
そして、最終的な成果(=病気で苦しむ患者さんとそのご家族を笑顔にするために、薬をつくること)につながる仕事をやっていきたい、と深く反省しました。