語彙で世界を切り取る

齋藤孝先生の『語彙力こそが教養である』を読んでいます。論文を書いているため、殆ど時間が取れないので、読書はなかなか進まないのですが、それでも寝る前の僅かな間などに読み進めています。まだ途中なので感想を書くのは早いのかもしれませんが、とても面白いと感じています。

よく言われることなのかもしれませんが、僕たちは言語により世界を切り取ります。その時に世界を表現する言葉をどれだけ知っているかが、その世界をどれだけ精密に描けるかに大きく影響します。簡単な例だと、黒板(こくばん)という言葉を持たない人はそれは単なる深緑色の壁にすぎません。この場合、黒板という言葉を知らなかったことで、それが意味ある対象物として存在していなかったことを意味しています。また、同じ空でもその移り変わりを表現するのに、曙、東雲(しののめ)、夕映え、茜という言葉を知っていたら、空の移り変わりをより微細に精密に感じることが出来るでしょう。

このような名詞だけではなく、その時の感情や心の動きも適切な言語で表現できれば、自分の思考の変化をより繊細に意識出来るのだと思います。この時に安易な語彙で逃げないことが必要です。自分の場合、『すごい』とか『やばい』とか『うざい』とか『むかつく』で、その時の感情を済ませてしまうことがあります。その時に具体的にはどう『すごい』のか、なぜ『すごい』と思ったのかを突き詰めて考えることで、その世界をより精密に切り取る言葉を見つける努力に繋がるのでしょう。

この際に言葉が見つかれば良いですが、見つかるかどうかはそもそもその語彙を知っているかどうかに依存しますので、上記の本にある通り、読書などを通じて予め語彙を収集しておく必要があります。

しかし、たとえ見つからなかったとしても、その努力は無駄にはならないと思います。というのは、その適した言葉が出てこなかったと言う事実が自分の記憶のフックになって、次にその言葉に出会った際に吸収できる可能性が高くなるからです。この積み重ねが大切なのでしょう。教養という言葉の通り、一朝一夕に達成されるものではありません。言葉で世界を切り取ろうとする努力を地道に重ね、一つずつ積み重ねていきたいと思います。


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